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終りに於て

 

 あなたが野蛮なる獣をあらかた退けた頃、あなたと手を携えて戦っていた女が血だまりになっているのに気づいた。彼女は最初からあなたの隣に居、しかして血だまりも同じところにあった。「リリス」と呟くと水面が揺らぐ幻が見える。獣らのように暴れまわった痕跡も損傷の激しい食べかすもなく、決定的な死の余韻を残して、静かに砂混じりのアスファルトの上に溜まっていた。
 食べられたのだ、他でもないあなたの意のままに。猛獣を食い散らし続けるあなたの箸休めに。
 つとこちらに近づく赤い影がある。気づくやそれは路地裏に向かって跳ね、一瞬消え、あなたが獣の喉笛をくわえ引き摺ってきた。あなたは私の目前に獲物を投げた。私は背骨を蹴り砕いてから汚れた鼻面を踏みつけた。するとソファー代わりといった風にあなたは獣の黄色い背に体を預け碧いたてがみに頭をうずめた。凝り固まった力が抜くように脱力すると縞の指で私を手招きした。獣の鼻面と地面とを剣で縫い止めてから、私はその胴体に身を寄せるようにしてあなたに頭を垂れた。
 それから血まみれの手に捕まった。
「おまえもおいしそう」
 燦爛と光る眼の焦点がぴたりと定まり頬を掴んだ鋭い手は誰の物だろう生温い液体を帯びている。開いた口唇に収まる歯と舌は一層赤く、悪魔は残酷な犬歯をちらつかせ赤い霧を吐く。
 背筋を突かれた羽虫を引き裂くように、乾いた花を握り潰すように、残酷な最期を与えうるその手の冷たさ。全体に赤い飛沫を浴びた蒼白い顔。どこから見ても美しいのに、死の戦慄を与える体の曲線。
 おもむろに口唇が沿わされ、頬に熱いものが滲みた。あなたの舌は獲物の味を伺うように私の顔を蹂躙した。そのうちに手が首に絡まり一切の身動きを支配された。ちらと歯が当たるたび気が遠のきおののく。あなたが取り去った死の恐怖があなたの手で引き戻される。
 やがてあなたが長く口を当てていた左の頬に変化が訪れた。何かが陥没し、睫に装飾されたあなたの黄の眼が間近で細まると、血と一緒に、言い知れぬ感情が体の奥から溢れ出した。
 それは一瞬の痛みで、あなたはすぐに力を緩めて左頬の傷口を吸い顔中の誰のものとも知れぬ血液を丁寧に舐めとった。睫毛についた一滴も眼球ごと舐めてくれたし、染み付いた色は何度でも拭ってくれたけど、今はその牙を敬遠する気持ちはなかった。どころかやにわに熱い息や首の皮を脅かす指が物惜しく、身に着けた鎧の硬さが憎く思われるようになった。
 血は止まったが胸の奥深くで膜を破って現れた新たな情感に突き動かされている。
 だから顎をなぞったあとの舌が私の唇を舐めあげたとき、躊躇いなく口を開けたのだ。
 あなたのやりくちは限りなく狂暴で底なしに優しかった。伸暢と収斂を繰り返すうちに現在位置が定かでなくなりあなたと私の概念が溶け合う。目蓋に火花が散る、舌が焼ける、喉の奥底に炎が灯る。噛みついても厭わない今すぐ食い潰して構わないだからこれ以上のものを与えないで直ちに私を奪い去って、でないと薄汚い本心を打ち明けてしまう。
 あなたの背に手を添えたい衝動は、肩まで上り来たとき切断された。あなたは私の肩を掴んで唇を離した。私の手はどうしようもなくあなたの膝に降りた。あなたの眼光は冷ややかに黄色い月を浮かべているが、そこに映る私はおかしな色をしていた。冷え切った額が触れ合っている。本来期待した節制を裏切られたいのにあなたの目には理知の翳りが在る。
 あなたは最後に唇と唇を軽く当て、
「食べちゃった」
 と言ってきれいに笑うと、私を解放し、獣を全滅させるためにあちこちの呻き声へ走り出した。
 私は口内に残ったあなたの唾液を飲み込んだ。そのときだ。私の過去に経験した恐怖の記憶が、情交のように深く情熱的にして恋慕のように甘く絶望的な至上の快楽として、甚だしい痛みと共に、回帰したのは。



 蛍光の縁取りが暗く沈んでいる。自らの手さえも闇に紛れて捉えられないまま、あなたの寝息が途切れるのを待っている。
 窓枠から臨む世界は闇色によどみ陰鬱と曇っている。この世界は生まれえない水子にである。
 あの日私とあなたが砕いて殺した顔がいかな可能性を指していても私を選んだと、あなたは言った。私は誇らしくしかし恐ろしかった。
 その暴力が私に向けられた日を覚えている。眼孔に指が入ってきたとき、そこから内部を掻き混ぜられたとき、焦げた皮を剥がれたとき、筋繊維を千切られたとき、指が離れていったとき、内腑が踏み潰されたとき、私の体液があなたの足を汚したとき。様々な形になった私のからだを慈母のような腕でかき集め慈しむように喰らったのも、あなただった。
 最早私はあなたの目に取り殺されることをすら望んでいる。もう一度あの快感を下さい二度と手を離さないで下さい。不毛な大地に残されたものを二人で、ひとつ残らず壊し尽くす約束を果たすまで。
 ふと、あなたの小指が動いた。それがあなたの目覚めの合図だった。あなたはいくつかまばたきをするとゆっくりと上体を起こし壁に預け、心許ない目蓋をこする。
「おはよう、ウリエル」
 微笑んだあなたの手に導かれるままに私は頭を垂れる。あなたの指がこめかみから顎に向かって降りていく。それに合わせて顔を上げると、眼の黒さが胸を突く。灰色の虹彩が蠢いている。堪らず這い寄る私を受け止めるあなたの力のやさしいこと。その腕の美しくしなやかなこと。眩しそうに瞬く睫毛が頬をくすぐる程に愛おしさが押し寄せるようで、私は一層強い力で縋りつく。既に心から酔っている。
 暗澹たる闇の射す窓の向こうに一匙青い陰がある。ここに時間は無い。毎日あなたと出会う目覚めがある。終わらぬ夜は充ちる。
「もうなにもいりません」
 私の世界はあなたの目の中にのみ在る。いつかふたりきりになったときあなたの最後の食事が最高に美味しく、私の世界の終わりを極彩色の旭光が染め上げるように、今はもう可哀想なこの身があなたの好きな味になっていくのを待つだけで。







命名 ドエムウリエル
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